希死念慮
希死念慮

希死念慮

死にたいと思う病気。。。希死念慮。

外に出て思う死ねるポイントは沢山あるのに心は進まない。
なぜかって??
他人に迷惑をかける死に方をしたら多額の請求で家族は苦しむだろうし、大好きと伝えてくれる友人の悲しむ顔を見ていられない。

そんなことをいつも考えながらモヤモヤ。
家に帰れば死にたくなって生きる意味を探す。Twitterで自死家族のツイートを見て悲しみに浸る。なぜだかわからない。悲しみが永遠に心を支配するのだ。

苦しみといえば。。。
家族に性的虐待に遭ったことを伝えたが何も得られなかった。何か得れるかなとも思っていなかった。予想範囲内。
家族とはなんなんだろうか?こちらを参照ください。
https://www.brieftherapy-counseling.com/family-2949.html

家族って安全地帯なんだって。じゃあわたしは地雷が近くにある貧しい家に住んでいる一人かもしれない。いつも何かに怯えていて、安心できるところはない。愛情を受けた覚えも乏しい。あるのは、叩かれ怒鳴られた記憶と、日本語もままならない私に何をやっても無駄だと私に言っていた母と姉の心無い言葉。記憶はパズルのようにバラバラになった。思い出したくても思い出せない過去。楽しい記憶より悲しい記憶で埋め尽くされた人生。

誰にも見つからないでここまできてしまった。きっと誰もが私を性的虐待の被害者であることを知らないし、だからと言って大人なのだから普通に働けていない私を社会は偏見の眼差しで見ているのだ。

こんなに苦しくて辛くて悲しくて、社会的弱者な私に生きる価値があるのか分からない。

私は性的虐待と家族から受けた心理的虐待によって、生活困窮者であり、心も体も自分の体であって、他人に支配されていると感じる。

同じ虐待サバイバーで苦しむ生活困窮者が苦しまず生きることのできるシステムを作りたいと思いながら毎日死ぬ願望を嘆いている。

仮に脳死判定を受けずとも臓器提供が出来るなら私は実行する。

心身一如しんじんいちにょ

心と体は一つであると言われている。

しかし、私の心と体は虐待を受けてバラバラになっている。私のものでもあっても、他の誰かに操られている。本当の私がどこにいることもわからず、かと言って今の自分も自分ではないのか?と言ったらそうではない。しかしいつになっても自分というものが分からずもがき苦しむ。

正に生と死とは紙一重なのだろう

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