あるがまま
あるがまま

あるがまま

みなさんは『あるがまま』と聞いて何を思い浮かべますか?
『あるがまま』ってなんなんでしょうか?
私の経験でのお話からその意味を見出していきます。

もくじ

自分を偽る

幼少期から自分を僕と呼んでいた。スカートや女の子の服は苦手であった。
気付いたころからボーイッシュだった。髪を伸ばすことにも抵抗があり、女の子らしくすることが大の苦手であった。女の子らしくすることが理解出来ない。高校を卒業し、夏の海水浴場ではビキニを着ることに抵抗があった。水着は上はラッシュガード、下は海パンで過ごしていた。
家族で訪れたどこかの海水浴場での『出来事』たまたま近くに居合わせたセクマイカップル(セクシャルマイノリティーカップル)。推測ではあるがMTFとFTMのカップルであった。当時にはまだ珍しい。そんなカップルを目の当たりにした両親がその方々に発した「何あの人たち、気持ち悪い」驚きを隠せなかった。また、驚きよりも深い悲しみが生まれた。その偏見はどこから生まれるのか筆者は不思議でならなかった。それから心に誓う『この人達には理解できないのだから自分のことをカミングアウトするのは諦めよう』また心の傷が増えた。両親と私の間には大きな壁できた。両親の前では本当の自分を出さないで、当たり障りなく表面上で生きよう。それが当時の自分の守り方であった。
※FTM(female to male)身体は女性であるが心は男性であること
※MTF(male to female)身体は男性であるが心は女性であること
※セクシャルマイノリティー=性的少数者(LGBTQ)(L=Lesbian G=Gay B=Bi T=Trans Q=Queer) 通称セクマイ

筆者はQueerである。私は私というセクシャル🌈

20歳の晴れ舞台であるはずの成人式。女の子の憧れであるはずの『振袖』が苦しくて苦しくてどうにかして逃げる方法は無いか考えていた。しかし、母は私の思いとは裏腹に振袖姿を心から楽しみにしていた。今思い出すだけでも心が苦しい。抵抗として、伸ばしていた髪の毛を短く切り、成人式には出ないと言い続けて抵抗していた。しかし、そんなダダごとも聞き入れるわけもなく、成人式は自分の心を打ち消して参加した。女の子でスーツを着て参加している同級生が羨ましくて仕方なかった。自分の意思を通せる環境が羨ましくて仕方がなかった。あの苦しい思い出をかき消したくて何年も成人式の写真を開くことが出来ずにいた。今となっては痛みも笑って話すことが出来るが、ほんの数年前までは墓場まで持っていくネタと思っていた。

自分って何者?

幼少期から自分が男だと思ったりすることがあり、成人を越えたあたりから自分の心は男なのかもしれない。そう思っていた。髪の毛は短髪。その頃にはまだ珍しかったかもしれない。性別という壁の前に自分がなりたい姿を表現することが。美容室で男性の写真を見せて、メンズカットにして貰うことは私にとっては当たり前だった。服装もメンズ。女性トイレが混んでいればしれっと男子トイレに入ることも有った。その時の容姿で女子トイレに入ることが苦痛であった(女子トイレに入ると必ず二度見され、時には女子トイレに入ることを拒まれることが有ったから)今では誰でも使えるトイレが出来ていて筆者と同じように、心から喜びを感じている人は沢山いると思う。

ここまでして唯一できないことがあった。それは自分を『俺、僕』と呼ぶことであった。使うたびに鳥肌が止まらなかった。そう呼ぶことはなんだか自分ではない気がしていた。ボーイッシュであることや過去に対しての憎しみから顔が引きつっていた。後に大っ嫌いな兄と似ている。と母や姉に言われ傷つくこともあった。幼少期、兄に守って貰えなかったことからだろうか、兄の存在を許せなくなっていた。過去の苦しみを吐き出しても癒えない。そんな状況で行き場のない怒りや悲しみ、苦しみばかりが募っていった。もし自分が男に戻るためにホルモン注射を打つとしたら兄とそっくりになるのが許せなかった。いつからか、自分が何者かが分からなくなっていった。それからコンプレックスばかりから外見を変えていくことよりかは中身を変えていくことが兄と似ていると言われることの脱却や「自分」を確立することが生きてくうえで大事なのでは?と考えてゆく

自分の内面を変えたい

自分の弱い心を変えたい。変えたら人生変わるのでは?手に職を持ち、それが自信に繋がるのであれば、親に恥をかかさない人間になれるでは?その気持ちから丁稚奉公がある秋山木工に入社。入社試験に合格し人生初の丸坊主に。意を決めて入社したが秋山木工のやり方についていけず半年以内に退社した。社内恋愛禁止。携帯の使用を禁止。丁稚期間の4年間は無給料(衣、食、住は保証されていた)。等々、現代社会においては目を疑うようなルールが設けられていた。職人になることで初めてお給料を頂ける。早朝Runにはじまり、現場は朝8時から、現場から帰ってきても次の日の準備や夕食づくりなど、休む時間はほぼなく、一日一日が過ぎていく。今もこんな会社があるのだと恐れるばかり。当時の自分は、自分に厳しくしなければ自分自身を変えていけないと思っていた。こんな弱い自分を変えるには意を決め、厳しい世界で生きて行くことが重要ではないかと考えていた。しかし自分に厳しくすればするほど心は病んでいった。、

友人に事実や考え方を伝えることで、環境を無理やり変えたり、自分自身を苦しめることは違うということを知った。この失敗から「自分自身を無理やり変えることは自殺と同じこと。あるがままの自分を受け入れ、知っていくことで自分を変えることが出来る」と知ったのである。また、環境づくりも大切だと筆者は考えており、浅く広い友人関係を築くよりも、深く狭い。自分という人間を受容し、敬ってくれる友人と出会い、支えあって生きて行くことが大事だと人生から学びを得た。

就職活動

やはり、世間は企業に入社して会社員になるのが安定。その概念が母には強かった。当の私は大学中退。過去の癒えない傷、自分の性、世間体。すべてが裏目に出ていた。アルバイトで過ごしてきた人間が就職するには壁が高すぎた。いや、過去の傷が癒えていないのに自己肯定できるはずがなく、自分を面接官に売ることが出来ずに惨敗だった。何十社落とされたかもわからない。無駄な時間だった。大学中退について圧倒的にマイナスなイメージで聞かれることが多かった。辞めた理由の一つに、奨学金という多額の借金をしてまで大学を卒業することが怖くなった。という思いが大きかった。多額の借金をしてまで大学に行くことはおススメしない。今なら思う、大学を中退したことは無駄ではなく、良案であること。自分で生きる道を確立していくしか方法はない。仮に大学を卒業し、一般就職していたら、この出来事に気付くころには随分年を重ねていたであろう。
大学を辞めると両親に伝えた時も母親は問題を子供に突き付けて、あとは自分でどうにかしなさい。といった。(父親は相変わらず我関せず。といったところであった)突き放す位なら干渉しないでほしいと筆者は今でも思う。突き放されるのは心が痛む。なぜ寄り添ってもらえないのか、今もわからない。母親は昔から自分の考えを子供に押し付ける癖があった。おかげでずいぶん筆者の人生も振り回されてきた。
子供に寄り添い、やりたいことをサポートして貰える環境が有ったのなら生きることに対しての希望をもてたかもしれない。
もし自分が子供を持った時には自分の概念を押し付けたくないと強く思う。子供がやりたいことをサポートし、心に寄り添える人間でありたい。

あるがまま

自分が性同一性障害かもしれない。しかし、そうではなかった。性同一性障害かもしれないと思ったのは、トラウマの爪痕かもしれない。自分が女であること、胸があって、高い声であることが許せなかった。男性から女性的目線で見られることが苦痛であった。それは、自分自身を受け入れることが怖かったのかもしれない。自分を守る抵抗だったのかもしれない。今でさえ、女性として見られることに抵抗はある。しかし過去を受け入れることで、自分の思いを相手に伝えられるようになった。

【自分は自分】あるがまま。もう偽らずに自分の人生を生きよう。その為に、自分が恥じない人間になることを決意する。人を傷つける発言には気を付け、自分自身を知ってゆく。人を愛すためには自分自身を愛す。友人は自分の身を守ってくれる存在である人を。トラウマの加害者を恨み辛みで憎む人生に終止符を。過去は変えられない。過去を癒していくしか方法はない。偉く遠回りしている人生だが、たくさんの理解者と応援が今日も私に生きることの嬉しさを与えてくれている。

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兄の友人からの性的虐待

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